京の夏、祇園祭 その2

kanohco2005-07-12

このところ雨の降る日が多いですが、いよいよ鉾建が始まりました。
山鉾は全部で32あります。全てとはいきませんが、主な鉾をご紹介します。

  • 長刀鉾』「くじとらず」の名があるように、山鉾巡行の先頭を受け持つ鉾。命名は、鉾 のてっぺんを飾った三条小鍛冶宗近作の大長刀による。宗近が娘の病気平癒を祈願して八坂神社に奉納したが、鎌倉期にある武人が愛用。しかし何かと不思議が起こり、返納したという。大永2(1522)年、疫病がはやり、神託で長刀鉾町で飾ったところ、疫病は退散した。創建は、嘉吉元年(1441)説がある。真木は全長20メートル。現在、稚児が乗る唯一の鉾である。
  • 函谷鉾』「かんこぼこ」とも呼ばれる。中国古代史話、孟嘗君の故事に基づく。戦国時代、斉の孟嘗君は秦の昭王に招かれ、宰相に重用された。しかし讒言によって咸陽を脱出して、函谷関まで逃げたが、関の門は鶏が鳴かねば開かない。配下が鶏の鳴き声をまねたところ、あたりの鶏が和して刻をつくったので見事通り抜けたという。真木は22メートル。鉾頭に、三角形の白麻を張り、先頭に三日月が上向きにとりつけられる。 
  • 鶏 鉾』中国古代の伝説「諫鼓」、天の岩戸の永世の長鳴鳥の故事にちなむとも。「諫鼓」は、暦を制定した伝説の聖天子・尭帝が、宮廷の外に太鼓をすえ、政治に不満があればたたかせ、木を立てて、訴えを書かした。世は治まり、太鼓は苔を生じて鶏が巣をつくったという。鉾頭は、紅白を互い違いに巻いた三角枠で、なかに同の円板が挟まれる。3つの角には紺いろの苧束の房がつけられる。中ほどに舟を担いだ人形が飾られる。 
  • 菊水鉾謡曲「菊慈童」から着想された鉾。魏の文帝の勅使が薬水を訪ねて山に入ったところ少年に出会う。聞けば、少年は700年前に、王の枕を誤ってまたいだのが原因で都を追われた。以後、普門品の偈を甘菊の葉に記しておいたところ露が滴り、この水を飲んで不老長生したという。慈童は、この薬水を勅使に献じた。昭和28年に復興。鉾頭には天に向いた16菊。この鉾に限り「菊水」と篆書が掘り出した額がつく。
  • 月 鉾』『古事記』によれば、伊弉諾尊が黄泉の国から戻り、禊祓いをされたとき、左眼を洗って天照大神、右眼を洗って月読尊、このあと、鼻を洗って素戔鳴尊を生んだ。月読尊は夜を支配した神だが、水徳の神でもあり、月鉾は、この故事に由来する。鉾頭に、横40センチ、上下24センチの金色の三日月。真木の中ほどに天王様を飾った天王台の下には籠製の船が真木を貫いてとり付けられる。元治元年の大火にもわずかに真木を失っただけだった。 
  • 放下鉾』鉾の名は真木のなかほどの「天王座」に放下僧の像を祀るのに由来する。鉾頭は日・月・星三光が下界を照らす形を示し、その型が洲浜に似ているので別名「すはま鉾」とも呼ばれる。かつては長刀鉾と同様「生稚児」であったが、昭和4年以降稚児人形にかえられている。稚児人形は久邇宮多嘉王殿下より三光丸と命名せられ、巡行の折には稚児と同様、鉾の上で稚児舞いができるように作られている。 
  • 船 鉾』『日本書紀』の神功皇后新羅出船に由来する。屋形内に飾られた神功皇后の人形は、面を着け、頭に天冠を頂き紺金襴の大袖に緋の大口、緋縅の大鎧を付けている。応仁天皇を生んだゆかりから、御神体に、晒を巻いて置き、巡行後に安産祈願の御腹帯として授与する習慣がある。現在の船鉾は、宝暦年間に計画され、天保年間に完成。船頭に「鷁(げき)」と呼ばれる想像上の瑞鳥を飾る。高さ1.3メートル、両翼端2.7メートル。

主な鉾のみご紹介しましたが、他にもたくさんの鉾がありますのでぜひ実際に見にお出かけ下さい。
詳しい物件の情報は狩野コーポレーションHPへ